2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学
2025(令和7)年06月03日(火)雨。聖書とヘーゲル哲学
久しぶりに終日雨が降り続いた。
X(ツイッター)@myenzyklo でノートを取りながら、ヘーゲルの宗教哲学の最終章「第三部 絶対宗教 Ⅲ 3一般的現実性への精神的なものの実現」(木場深定訳)の個所を久しぶりに再読する。
「問題はただ、感情の内容が真理であるかどうか、それは思考において真実の内容として証示されうるかどうか、ということだけである。哲学は主観そのものが感じるところのものを思考し、そして感情と折り合うことを主観に委ねる。このように感情は哲学によって拒否されはしない。むしろそれはただ哲学によって真実の内容を得るのである。
しかし思考が具体的なものに対して対立し始める限り、思考の過程はこの対立を克服して、これを宥和に到達させることである。この宥和が哲学である。哲学はその限り神学である。それは神の自己自身との、また自然との宥和を提示する。すなわちそれは、自然・他在そのものが神的であり、そして有限精神が一部は自己自身において自己を宥和に高め、一部は世界史においてこの宥和に達することを示すのである。」
聖書の研究のためにヘーゲル哲学に入ったことは正しかったとあらためて思う。ヘーゲル哲学は聖書の真理の論証である。宗教と同じく、あるいはそれ以上に哲学もまた深い精神的な充足をもたらす。聖書が先でヘーゲル哲学は後だ。ヘーゲル哲学はなくても聖書はあるが、その逆はない。
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