赤尾秀一全集

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明日は憲法記念日

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明日は憲法記念日


明日の2026(令和8)年05月03日(日)は憲法記念日です。現行日本国憲法は日米戦争において日本国の敗北後に制定されてから、すでに80年を経過しています。現行日本国憲法は第九条に「戦争放棄」の条項のがあり、そのために「平和憲法」とも呼ばれたりします。


いわゆる「GHQ体制」の継続する戦後のアカデミズムにおいて支配的で権威的な、かつ政治的な地位を構築してきた一人が、憲法学者の樋口陽一氏です。氏はそのことによって現行日本国憲法の護憲に良くも悪くも大きな役割を果たしています。

樋口陽一氏の憲法学については私はかねて批判的でしたが、憲法記念日の前日である今日、あらためて現行日本国憲法や樋口憲法学に対する私の批判的な立場を明らかにしておきたいと思います。

樋口陽一憲法学の主たる問題点

1、主権概念の軽視

樋口陽一氏の憲法学は、「国家」を個人の自由や人権を拘束するものとして、否定的に対立的に捉えています。そこでは「国家主権を制限すること」自体が「立憲的」だと強調され正当化されていますから「立憲主義」は「国家権力を制限し拘束するもの」 と解されています。

近代国家の憲法における「立憲主義」の本来的な意義は 「国家を統治するためのルールとしての法の支配」 という意味であるはずなのに、「立憲主義」が「国家主権を拘束するもの」として解されているために、日本国憲法が「国家主権を制約するための装置」 のようになってしまっています。

普通の主権国家は、自国の防衛や外交政策を「立憲主義」によって自律的に決定する権限を持ちますが、日本においては「立憲主義」の偏向的な解釈によって、国家が自己防衛のために持つべき 「積極的な国家主権」がとくに制約される方向に議論が進みます。

そのために国家が自主、 自律的に外交・防衛政策を決定する能力を持つことが否定され、事実上、憲法の枠内に国家主権を制限しようとする護憲的立場が強まります。それが日本国の独立国家としての主体性を回復する上での大きな障害となっています。


2、「平和主義」の絶対視と安全保障政策の軽視

樋口陽一氏の憲法学においては、憲法第9条の戦争放棄の条項、「平和主義」を絶対視することから、憲法改正や防衛力強化に対して否定的な立場を取っています。樋口氏は日本国憲法第9条を、「戦後日本国の根本原理」 と捉えています。

そして、軍事力を国家主権の不可欠な要素として位置づけることにも反対しています。自衛隊の存在や集団的自衛権の行使についても極めて消極的です。憲法改正論議に対しても基本的に「護憲」の立場から反対しています。

しかし現実においては、たとえばイギリス・アメリカ・イスラエルのような国家は、すべて強固な軍事力を持ち、それを国家主権の基礎としています。それに対し樋口氏の憲法解釈では、「武力を放棄すること」が憲法の本質であるとされており、日本国の普通の「主権国家」としての在り方を否定しています。

もし、日本国が普通の「主権国家」としての性格を取り戻そうとするのであれば、安全保障政策を憲法の制約から解放して、国際環境に適応する形での国家戦略を立案できるようにすることが欠かせません。

ところが実際に、戦後日本国においては、樋口憲法学の権威的な、政治的な影響力が強く、現行日本国憲法の「平和理念」が優先され、その一方で、国家の根幹である安全保障政策が軽視され、国家の生存戦略が二の次にされるという結果になっています。

3、国際法と日本国憲法との関係についての誤解

樋口氏の憲法学では、日本国憲法の理念が国際法的な現実よりも優先される傾向があります。たとえば、樋口氏の議論では、日本国憲法9条の「戦争放棄」は 「普遍的な法原則」として機能する という前提に立ちますから、

国際法上の主権国家の権利(自衛権・武力行使の権限)との整合性があまり重視されません。 その結果、「国際社会において日本がどのような立場を取るべきか」ではなく、憲法の理念に基づいて国際社会とどう関わるべきか という議論に終始することになってしまいます。

現実の国際政治では、国家主権の行使は国際法の枠内で行われるべきものであり、憲法の理念が絶対的な拘束力を持つわけではありません。特に 国連憲章51条(自衛権の承認)や国際法における 「主権平等の原則」 は、日本が自国を守る権利を持つことを認めています。

しかし、樋口氏の憲法学においては、日本国憲法の理念が国際法的な枠組みよりも優先されるため、日本国の主権行使が国際法的な水準よりも過度に制約される傾向があります。