行旅夏といふことを

行旅夏といふことを
雲雀あがる おほ野の茅原 夏くれば
凉む木かげを ねがひてぞ行く
(山家集238)
この和歌には三つの構図が描かれています。季節は夏の広野で、茅草が一望の下に広がっています。さわやかな初夏の頃には空高くに雲雀が舞い上がっていました。今は夏の強い日差しを受けながら、一人の旅人が、その広野一面の茅原の中を、涼しげな木陰を求めて歩みを進めています。
この旅人は一体何を求めて旅しているのでしょうか。
強い日差しの照りつける茅の広がる夏の野は広く大きく、果てしもない大野にくらべれば、そこを歩く旅人は小さな存在です。旅人の旅の目的はもちろんわかりません。
かってこの大野を横切ったときには空には雲雀が上がっていましたが、今は季節は夏であり、きびしい陽射しが空から刺してきます。旅人は夏の暑さに耐えきれず、涼しい木陰を求めてひたすらに歩いていきます。はるか遠くには木陰がありそうです。
この暑さの中では、ただ涼しさを求める肉体の欲求を満たすことだけが旅人の頭の中を占めていて、旅の目的などはすでにすっかり忘れてしまっているようです。今は木陰の下で安らうことさえできれば身も心も満たされます。木陰の下にたどりついてこそ旅人は憩うことができます。
精神も肉体もはかなく有限である人間としての旅人は、暑い日差しの夏の真っただ中で、さわやかな初夏のころには空に舞い上がっていた雲雀のことを思い出しながら、憩える木陰を求めてただひたすら歩いていきます。歌人の西行はそうした人間の姿を描いています。
※追記
ヘーゲル美学の立場から、西行という人間像と和歌の世界をとらえようとしています。
ヘーゲル哲学の応用的解釈の事例として、芸術、宗教、国家など、生活における具体的な対象をどのように認識するか参考にしていただければと思います。
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